上田藩時代

信之は関が原の戦い後松代に転封される1622年まで約20年間上田を統治した また上田城築城から真田家
が上田を統治したのは、合計40年間ほどである
上田市街はどこも六文銭の旗であふれている 上田と言えば真田 郷土の英雄とは言え上田市民がこれほど敬愛
するのは何故だろう 真田後の仙石、松平氏は影もない


上田城西櫓
仙石氏時代の建物が唯一そのまま残っている
石垣の下は埋め立てられ駐車場になっている
上田城南櫓 上田城址公園は桜の名所として人気
桜の時期は観光客であふれる
民間に払い下げられていたものが昭和18年頃再移築された


上田城南櫓、櫓門、北櫓
櫓門は平成になってからの再建
門を入ると本丸になり、手前側の道路の部分が
お堀の橋、さらに300mほど手前が大手門になる
千曲川堤防より上田城を望む 左に西櫓、右端に南櫓が見える
当時は城まで川になっており、櫓のすぐ下が尼ヶ淵の崖になって
いて手前は河原であった 堤防が出来てから後、流れが変わり
畑などになった 今は新幹線の高架橋 上が太郎山


信之時代の上田城の図(部分)
古城、本丸の部分が隅櫓に囲まれた城の主要部(建物は破壊さ
れて無かった) すぐ下を千曲川が流れている
右下「城主ヤシキ」が現在の上田高校で、藩庁も置かれていた
中央部に「中ヤシキ」、右上には「内記ヤシキ」(次男信政屋敷)、
また城の周りに「士ヤシキ」(藩士の屋敷)が見える


上田城は関が原の戦い後破却され、信之も幕府に遠慮し復興
しなかった 改修は真田後の仙石氏による
NHKのBS熱中夜話「日本の城を語る!」の中で、お城ファンが
選んだ「好きな城ベスト10」で上田城が堂々の第1位に選ばれた
真田一族が好きと言うファンが如何に多いかということだ
(上田市公式HPより)


上田高校正門
上田高校は藩主館跡に建てられており、この校門は上田藩主居館表御門を継承している
その校歌には ♪関八州の精鋭をここに挫(くじ)きし英雄の義心(こころ)のあとは今もなほ松尾が丘の花と咲く♪
と歌われている
信之はここに館を置き上田領を統治したものと思われる


大阪の陣
信之、小松殿は九度山の昌幸等を何かと援助し、赦免にも努めたが、かなわず昌幸は慶長16年(1611)死去する
弟信繁は大阪城に入城し徳川軍相手に華々しく討ち死にする
信繁の活躍は「難波軍記」、「上田軍記」などの読み物から、真田幸村として上田の人々にも広く知られ、反骨の信州
人の典型として人気を集めたものと思う


秀忠饗応
滋野通記によれば、元和3(1617)年家康死去の翌年、真田家上屋敷に将軍秀忠を迎え饗応した
秀忠は、こんな楽しいことは初めてと大変満足し帰った その時の什器類は真田家に保存されている と言う記述が
ある 秀忠とは良い関係にあったと思われる


 
芳泉寺 仙石氏の菩提寺にもなっている 同寺にある小松殿の墓 銘文に信之が一周忌に建立とある


小松殿の死 1620(元和6)年
小松殿は病気のため、草津療養を許され、江戸から草津へ向かう途中鴻巣で没したというのが定説である
しかし滋野通記によれば、1648年に三男信重が参勤の途中鴻巣で病死したとあり、小松殿の縁で鴻巣の勝願寺に
葬られた 信重夫妻の墓は小松殿の隣に建っている
これが混同し、小松殿が鴻巣で没したとなったと思われる 鴻巣の勝願寺に墓があるが、小松殿が同寺円誉不残上人
に深く帰依していた関係で次女が一周忌に分骨したものと、勝願寺には伝わっている
また、墓碑には元和七年三月二十四日施主於姫敬白とあり、御事跡稿には次女見樹院建立とある
信之は小松殿の死を我が家の灯が消えてしまったと嘆いた なお、上田では小松殿は「江戸の御前様」と呼ばれていた


検地帳を引き継がず
真田家の松代転封は仙石忠政が幕府に願い出たためとされ、信之が怒り検地帳などを燃してしまったと言う
真田藩は特異な貫高制を採用していたため、引き継げなかったとも思われる
貫高制は基本となる貫高帳が、年貢高よりもどれだけの軍勢が集められるかという兵役を主眼としたものであり、
兵農分離の進んでいない山国にとってはより実情に合ったものである 家臣の知行地別に作成しているため、
領主の交代で引き継ぐ事は出来なかった またこの貫高制が真田の強さの所以でもある