真田氏と上州

沼田城は天文元年(1532)この地方の豪族沼田万鬼斎によって築城されたと伝えられている
昌幸は天正8年(1580)沼田衆の多くを味方に付け、沼田城を攻略し支配下に置いた
第一次上田合戦の時には、城代矢沢頼綱は北条方の攻撃を良く防ぎ、撃退した
その後秀吉の裁定により、沼田城は北条側に引き渡され、名胡桃城は真田が領有する事となった
北条方は名胡桃城を攻め取り、これが北条討伐(小田原の陣)の名分とされた なお、名胡桃城主鈴木主水は責任を
取って正覚寺で切腹して果てたと伝わる


 
名胡桃城本丸跡 正覚寺にある鈴木主水主従の墓と言われるものだが不確か


岩櫃城址のある岩櫃山
岩櫃城は幸隆が永禄6(1563)年攻略し真田領
となる 沼田城を手に入れる前は真田方の上州
に於ける主城であった
慶長19(1614)年大坂冬の陣の前に、幕府の
疑いを晴らす意味もあり、一国一城令を先取りし
信之は廃城にする
岩櫃城址はこの山の裏側の中腹にある


初代城主信之の時代
北条滅亡後、天正18年(1590)沼田は真田領となり、信之に支配が任された 沼田は真田領の一部であり、独立した
藩とは認めないのが定説で、信之は初代城主と言う事になる
信之は田畑の開拓、用水、道路、荷役の整備、水防、産業の振興に意を用い長い戦乱で荒れ果てた領内の復興政策
を進め、諸役年貢の減免も行い、名君と慕われた
小松殿も江戸屋敷へ移る慶長13年(16008)までここに住み、領民にやさしい奥方と慕われた

 
利根川方面国道17号から沼田城を望む かなりの断崖の上にある    西櫓の石垣と御殿桜の根本


 信政の時代幕府に提出した沼田城絵図の一部分

 信之は慶長年間には5層の天守閣を築き、関東地方では5層
 の天守閣は他に江戸城しか無く、天下の名城と言われた


   
正覚寺にある小松殿の墓
今も献花が絶えない
 墓の右に建つ御霊屋 これは近年の再建だが以前
 は萱ぶきで、後閑村は小松殿の御料所であった故、
 屋根葺き替えの萱を出したとの話が伝わる
 正覚寺山門 寺の大法要には小松殿
 の遺徳を偲び今も後閑村の代表が参加
 しているという


2代城主信吉

  元和2年(1616)信之は上田へ移り長男の信吉が沼田領を引き継ぐ 信吉は
生年、生母とも諸説あり、謎の多い人物である
沼田城は台地の上にあり、また城下の発展に伴う水不足を補うため川場用水を
整備した 新田の開発、交通路、伝馬制の整備、経済の発展に力を注ぎ良く領
内を統治した
また、寛永11年(1634)には大鐘を城下の鍛治町で鋳造させ、城内三の丸に
鐘楼を建て時鐘とした その銘文に
この鐘の一声が万天に轟き、上下すべて眠りから覚め心の底まで清らかになる
主将(領主)の権威は長久であり、従って城も家も安全である
寛永拾一歳閏七月吉日
 滋野朝臣信吉公
とある しかしその願いも空しく、真田沼田藩改易後破却され、様々な経緯を経て
昭和58年再建された


4代城主信政
信吉は寛永11年(1634)死去 その後を長男熊之助が継いだが寛永15年7歳で死去してしまう そこで信之の次男
信政があとを継ぐ 信政は検地、用水、新田、鉱山の開発、町割りの整備に努め、沼田領の財政を豊かにした
明暦2年(1656)ようやく信之の隠居に幕府の許可が下りたため本家松代領に転じ、沼田領は信吉次男の信利が継ぐ
しかし信政はわずか2年後に死去してしまう このため信政の六男幸道、沼田領の信利との間に後継者争いが起き、
沼田と松代の縁も切れ、それぞれ独立した藩となった


沼田藩初代藩主信利
信利は従来沼田領で行われていた貫高制の検地を改め、石高制の検地を行い石高を14万4千石あまりにも増やした
従来沼田領3万石と言われるのはあくまで表高ではあるが、大幅な増加である これは主に田畑の等級を下田から中田
中田から上田へと言うように引き上げたことによるようである またその理由は松代10万石への対抗上と多すぎる家臣
の整理であったと言われている(1)
このため年貢を払えない農民が増え、農民の逃散が多発し、直訴などが続いた この失政と、両国橋架橋工事の木材
提供の失敗を咎められ改易され、沼田真田藩は消滅した


農民闘争
過大な検地による重税、延宝8年の大飢饉さらに両国橋用材搬出の賦役が重なり、農民は大変な飢餓に苦しんだ
これに対し中之条の農民がたくさん逃散したと言われている
将軍綱吉に直訴した杉木茂左衛門が磔茂左衛門として明治以降有名になるが、確実な史料が無く伝説の域を出ない
また、年貢を払えない農民を水牢に入れ苦しめたと言う話も、史料が無く実際にあったかはわからない(2)
しかし多くの農民が餓死寸前にあると言う危機的状況にあるのに、一揆にまでは至らなかった 沼田藩側の弾圧が厳し
く、また農民も我慢強く従順であったのであろうか
また、一面立場の違いからか、信利を慕うという風潮も一部に有り、一概に悪政と決め付けられない面もあったようである
補佐役に有能な人材が得られなかったための悲劇と考えられる

*1 真田氏は昌幸の時代以来、上田に本拠を置き、西上州の地侍
を味方に付け、その攻略、領土の維持を行った そのため、家臣が多
く、またその知行地の合計は藩の表高を上回っていた
信利の藩政改革の第一は家臣の整理であった 家臣を知行地から城
下に移すため、侍屋敷の建設も必要で、単純に普請好きであったとば
かりは言えない
*2 江戸時代、年貢の徴収は村単位で行われて居り、藩が個々の
農民を罰することは無い 年貢が払えなければ村の共同責任となる
水牢跡と言われる物が幾つか残っているが、伝承だけで史料は残っ
て居らず、事実はわからない 前時代の斉藤氏が使ったとも思われる
右は中之条町 桃瀬の水牢跡 水面下にしっかりした石組みがある


参考文献
唐沢定一他編 真田氏と上州 みやま文庫
山口武夫著 真田藩政と吾妻郡 西毛新聞社
郷土文化研究会編 沼田記