第二次上田合戦

犬伏の別れ
慶長5年(1600)家康は上杉討伐に会津に向かう 昌幸、信之、信繁も従軍する
栃木県小山市の野陣で石田三成の密書を受けた昌幸は父子3人で対応を協議する
その結果従来の行きがかりから、昌幸、信繁は石田方に、信之は家康方に付くことになった
どちらが勝っても家が残るようにしたというのは結果論であり、正しくないと思う 当時の情勢分析から、家康側が有利
と思っていただろうが、昌幸と家康は肌が合わないし、昌幸の反骨精神もあったであろう

沼田は会津と上方を結ぶ戦略上の要衛で、家康は信之の味方を大変喜び、昌幸の所領まで与えると言う安堵状を出す

7月27日信之宛家康安堵状
今度安房守別心のところ、その方忠節を致さるの儀、誠に神妙に候 然らば、小県の事は親の跡に候の間、違儀なく
遣わし候 その上身上何分にも取り立つべきの条、その旨を以って、いよいよ如在に存ぜらるまじく候 仍って件の如し
慶長五年七月廿七日  家康(花押)
  真田伊豆守殿



昌幸は上田へ帰る途中、先行した少数の兵とともに、沼田城へ立ち寄り孫の顔が見たいと入城を迫るが、小松殿が
拒否した話は有名 昌幸はもう会えないであろう嫁と孫の顔を見たいと言うのが本心で、まさか沼田城を乗っ取ろうとした
とは考えたくない 
その後、小松殿は城外で孫に会わせたという 滋野通記などいろいろに記載あるエピソード

この話は広く伝わっていたようで、たくさんのバージョン
がある 内容的には納得できない部分もあるが、その
ひとつ沼田記の私の訳を紹介します 訳に不適切なと
ころもあるかと思いますが、ご了解下さい

沼田記写本のその部分
 昌幸は沼田城を乗っ取り篭城しようと思い、下野小山の犬伏より直に赤城山
 を越し、沼田の城三の丸祢津志摩の屋敷へ入り給い、志摩の妻を以って伊豆
 守内室へ申されるには、
 「この度奥州攻め暫く中止され、家康公御帰府に付き、伊豆守も参府致され
 る 我等は当地に暫く在城し、伊豆守の方より上方の様子申し越し次第出立
 する 諸卒をも休息させたくまた我身も老体なので、城内で介抱を頼み入る」
 とある 内室は使者の趣をお聞きになって、この度上方逆乱の折なので、ここ
 へ来られる子細はない また伊豆守殿より義父上達のお越しの趣も仰せつか
 っていないし、書状もないので、甚だ不審である だましてこの城へお入りにな
 って篭城する積りとみえる 例え親子の仲であってもこの節思いもよらない事
 であるとし、祢津の妻への返事には「これまでの長旅のお疲れも大変で、当城
 に暫く休息したいとの趣旨、止むを得ない事ですが、伊豆守殿よりおもてなし
 も申し遣わされていないし、その上家康公のお供で江戸へ参られている由、そ
 れなら老臣の誰かを遣して来るところ、それも無くはなはだ不審なので、城へ
 お入りになる事は叶えて上げられません そこでごゆっくり御休息されるか、
 何処かへお越し下さってもよし、ここに居られるなら、伊豆守よりお許し頂きま
 してから、御入城も出来ます もしまたこの趣旨お聞き届けなく、無理に御入
 城なされようとするなら、恐れながら親君といえど、一矢仕ます」と返事なさり、
 早鐘を頻りに打鳴らさせたので、残っている家中の老若の諸士は急いで城へ
 駆け付けた 内室は兼ねて伊豆守より仰せ置き下されたのであろうか、緋縅の
 鎧を着て側に薙刀を持たせ、床机に腰かけ大書院にお出になり、士卒を召し、
 この度安房守殿は当城へ篭りたいとの由、命がけで義を守り防ぎなさい 家中
 の諸士で役に立つものは皆伊豆守のお供でいないので、たいした事は出来な
 いが、適わぬ時は私も自害をと思い極めるなり その旨何れも心得、妻子残ら
 ず篭城すべしと触れよと、夫々手配し、今か今かと待った
 志摩の妻は急いで帰りこの由申し上げれば、昌幸打ち笑い、佐衛門佐よ聞け
 武士たるものの妻は誰もこうありたい、頼もしい事だ 是で沼田の事は少しも
 心配する事は無い 明日は出立しよう 「申すまでも無いことだが、留守は宜し
 く頼む」と申し付けられ、翌未明に沼田を立ち、吾妻へ越給い、其の日は横谷
 左近の宿所にお入りになった

その後昌幸は三成の手紙等も含め重要書類を信之に渡している 上田と沼田の間が絶縁したのではなく、行き来は有っ
たようであり、またこの時昌幸は信之に家督を譲ったとも考えられる
なお、昌幸は上州からもかなりの募兵をしたようで、人と物との交流は煩雑に行われたようである



秀忠軍の名目は真田討伐

家康は上杉の抑えに結城秀康を置き、江戸に引き上げ福島正則等を美濃に先発させる
秀康は既に武将としての実績もあり大事な任務に就けた 秀忠は初陣であり、名将榊原康政、謀将本多正信などを付け
真田討伐を命じた 兵力は38000、徳川軍の本軍と言うべきものであった 出発が8月24日で家康はまだ江戸に留まっ
て、諸将への工作等をしていた


1、上杉方の動向 また、野心家の伊達政宗は何をするかわからない 双方合わせれば、7万以上の動員能力がある
  このため北方を警戒し、取り敢えず信州辺りに兵を進めた(1)
2、兵力を温存した 大阪城の毛利軍もあるし、関が原の戦いで決着が付くとは考えていなかった
3、石田など2000そこそこの真田と同程度、恐れるに足らずと言う家康得意のパフォーマンス
4、上杉討伐も名分上は秀頼の命令 大義名分上大々的に、石田討伐とは言えなかった
これ等を家康は総合的に判断し、秀忠軍の名目を「真田討伐」にしたと考える
1 家康は江戸を出立する時、信之のもとへ、上杉が出てきたら、新潟の堀秀治に三国峠で加勢せよと言う書状を出した
また本多、平岩、牧野にも堀に加勢せよと言う書状を出している これ等は秀忠軍が出立した後で、結局間に合わなかった
が、家康が上杉方の動向を気にしていた証拠

8月23日信之宛秀忠書状
わざわざ啓せしめ候 よって明24日にこの地を罷り立ち
小県へ相動き候の条、その分御心得候て、彼の表へ御出張
あるべく候 尚大久保相模守、本多佐渡守申すべく候
八月廿三日   秀忠(花押)
 真田伊豆守殿

また同日付の小諸城宛秀忠書状にははっきりと「信州真田表
仕置きのため明24日出馬せしめ候...」とある
上杉景勝は何故徳川軍を追撃しなかったか
徳川軍が宇都宮から撤退したときに上杉軍が追撃し
徳川軍に打撃を与えれば歴史も違ったものとなった
1.逃げるものは追わずと言う謙信以来の伝統
2.北方には伊達、南部、最上等がおり、かえって
 上杉が挟み撃ちになってしまう
などの理由から上杉も徳川軍を追撃するのは難しか
ったと思われる



合戦の経過

この時秀忠軍は38000の大軍 上田城は2000 援軍は無くまともに攻撃されたら長くは持ちこたえられない
当然秀忠は降伏を勧告する
昌幸の戦略は何だったのだろうか この時点では如何ともし難い 時間稼ぎし石田方の勝利、上杉の上洛等を待ち混乱に
乗じ信州一円を切り取ろうと考えていたと思う 意気盛んなところを見せ秀忠軍と対持していた 決して挑発はしなかった
徳川軍が城外の稲を刈り城方を挑発したので各地でかなりの小競り合いはあり、徳川軍に戦死者は出たが、本格的な戦闘
は無かったと思う ましてや秀忠軍の総攻撃は無かった
上田七本槍? 賤ヶ岳七本槍以降、七本槍の付く戦いはいっぱいある 何か嘘っぽい



弊社上田店付近より西方向上田城方面を望む 染屋台地が徳川軍本陣 真田方は虚空蔵山に伏兵を置いたとされる
(上田には上田染谷丘高校もあり間違いやすいが、染屋が正しい 虚空蔵山は別名カイコ山とも言われる低山 )
虚空蔵山の右側が砥石城、さらに真田の郷になる また、上信越道手前側が東京方面になる
第一次上田合戦で徳川軍が陣を置いた八重原台地や、丸子城は画面の左方向になる


小松殿は沼田から軍勢が出征した後、残された家族が心細いであろうと城中に集めた 家族を安心させると共に、
謂わば人質に取り家臣の昌幸への内応を防いだ 婦人には稀なる謀略と評判になった (滋野通記より)
舅昌幸の上を行くと思わせる、面白いエピソードである 義父上様おかげ様で私も中々やるようになったでしょう、と思ったか


秀忠軍 関が原の戦いに遅参

諸説あるが、
1、真田の抵抗にあい遅れた これが定説
2、家康の、関が原へ向かえという指令が大雨による河川の氾濫で遅れた
3、家康の指令を出すタイミングそのものが遅れた
4、関が原の戦いの後、こちらへ向かえという指令を出した 上田軍記にも記載あり
近年は2を支持する説が多いが、上記家康の江戸出立時の動向から、私は3,4を支持する
昌幸は秀忠軍をしばらく食い止めたら関が原に間に合わないと考えた
→とんでもない 歴史を知っている我々はそうだが、昌幸に家康の進発も戦いのタイミングもわかる訳は無い 偶然の結果
家康は各将への工作の結果、秀忠軍を待ってはチャンスを逃すと考え戦いに踏み切る そして石田軍の善戦にあい苦戦す
るが、筋書き通り勝つ

関が原の戦いが一日で決着が付いたため、各将の思惑が外れてしまった
秀忠は遅参 また、真田昌幸は信州一円を切り取る、上杉と伊達は奥州に勢力を拡大する、と言う思惑
中立の毛利、命からがら逃げ帰った島津と共に存亡の危機に立たされた その結果上杉と毛利は減封に、
家康の命に背いて勝手な行動をした伊達は恩賞(100万石のお墨付き)をふいにした


真田処分

秀忠は間に合わなかった 家康は多くの犠牲を出し戦った諸将の手前、秀忠を怒る そして真田に遅参の責任を負わせる
その結果敗者である昌幸、信繁は当然死罪にする積りであったが、高野山配流に減刑する
信之の必死の助命嘆願
本多忠勝、その友人の榊原康政、井伊直政の助命嘆願
昌幸等が上田城で必死に抵抗しては面倒と言う考え
謀将本多正信の進言 家康は当初豊臣家の存続も容認していたが、関が原の戦い後廃絶に考えを変えた→大阪に近い
高野山辺りに置けば豊臣旗揚げのエサになる 等々
昌幸も配流後九度山から、赦免の希望を書いた手紙が残っている 昌幸自身も秀忠に大したことはしていないと思っていた
「何で俺はこんな罰を受けねばならぬのか もう上田に返してくれ・・・」

慶長8年信綱寺宛昌幸書状
・・・・・・・・・・この方替る儀なく候 御心易かるべく候
よって内府様当夏中関東御下向の由風聞候の間、
拙子こと本佐州(本多正信)定めて披露に及ばるべく
候か 下山に於いては面拝を以って申し承はるべく候
恐惶謹言 昌幸  卯之三月十五日 昌幸(花押)
上田に本多正信あて家康への取
り成しを頼んでいたようで、流罪に
なってまだ2年余りの時期に下山
を期待していたことがわかる



信之 徳川の大名として生きる決意を新たに固める
信之の嘆願により昌幸父子が助命され、「義朝に比べ立派な振る舞い」と評判を高めた
保元の乱の戦後処理で源義朝は父為義や多くの兄弟を斬る
信之は沼田とともに、昌幸の上田、小県の旧領も引継ぎ9万5千石の大名となる 名前も幸の字を遠慮し信之に改め、徳川の
大名として生きる決意を新たに固める
家康からも信頼され、帝鑑間詰めの大名として譜代大名扱いであった 諸大名からの人気も高かったようだ