松代転封

元和8年(1622)信之は江戸城に呼ばれ将軍秀忠列席の上、松代転封を言い渡される
上田6万石から松代10万石へ加増であった 当初は待城、松城と言われていたようである
(関が原の戦いの後、森忠政が兄長可の旧領をようやく継いだので待つ城、待城と当初は言われた)
松代城は元々海津城と言われ、武田信玄が、北信濃への進出と防衛のために築いた城
川中島の戦いの舞台となり、真田氏とも深い関わりがあった

松代城址 本丸太鼓門 修理が終わりきれいになった 松代の町並み 城下町の風情が色濃く残る


秀忠最後に恨みを晴らす?
秀忠は翌年三代家光に将軍職を譲るので、将軍のうちに懸案事項を処理した
上田は実り豊かな父祖の地であった
しかし上田藩は江戸時代後期(松平氏)大規模な百姓一揆も起こり、財政は破綻していた
やはり表高相応と思われる
秀忠は福島正則をはじめ多くの大名を、改易、転封した 関東周辺では父祖の地にそのまま
留まっているのは真田家のみであった 幕府から一番優遇されていたとも言える
家康の「真田家は移封すべからず」と言うお墨付きがあったとしてもである
諏訪藩が一時関東に移されたが大阪の陣後復帰している 諏訪神社の大祝であった特例
信之は帝鑑間詰めの大名として譜代大名扱いであったが、帝鑑間詰めとは本来戦時には一軍
を指揮する15万石前後の譜代大名の伺候席であり、松代10万石の方がよりふさわしい
松代は荒地が多く、実収は少ない しかし善光寺地震、千曲川の氾濫など天災で松代藩が苦
労するのは信之没後のことである
ただ、「転勤のないのは真田だけだ」と言うようなやっかみの声もあったかも知れない
また、「秀忠は関が原の件で真田を恨んでいる」と言う声も一部あったかも知れない 秀忠は
加増してやり度量の大きいところを最後に示したかった 等々考え私は秀忠は真田を優遇して
いたと見る

出浦対馬守宛信之書状(原文のまま)
  尚々、我等事もはや老後に及び、万事入らざる儀と分別せしめ候へども、上意と申し、子孫の
  為に候条、御諚に任せ松城へ相移る事に候 様子に於ては御心易かるべく候 以上
去る十一日の書状鴻巣に参着、披見候 仍って今度召しに付いて、不図参府仕る処に、河中嶋に於て過分
の御知行拝領せしめ候 殊に松城の儀は名城と申し、北国かな目の容害に候間、我等に罷り越し御仕置き
申し付くべきの由、仰せ出だされ候 彼の表の儀は拙者に任せ置かるるの旨、御直に条々、御諚候
誠に家の面目外実共に残る所なき仕合せにて、今十三日鴻巣に至って帰路せしめ候 先づ上田まで罷り越
すべく候間、其の節申すべき事これ在る儀、一角所迄遣わされ候 祝着に候 猶、後喜を期す 謹言
十月十三日 伊豆守 信之(花押)
 出浦対馬守殿

過分な領地を拝領して、将軍直々に松代転封を命ぜられ仕合せであると建前を述べながら、命令通り松代へ
移るので心配しないようにと、家臣に動揺を与えないよう配慮もみせている
実際家臣にとっても転封は大変なことであり、上田に留まって帰農した者も数十人いたようである


信之公御霊屋 日光と
同じ建築様式の立派な建物
大英寺 小松殿の御霊屋が
 本堂になっている
長国寺 真田家の菩提寺
 ご住職に色々お話を伺うことが出来た


紀州徳川頼宣との親交
頼宣は信之を尊崇して居り、良く藩邸に招き話を聞いていたようである 隠居後江戸を去るにあたり
招かれ頼宣次男の具足着初めを頼まれた 信之は真田家秘蔵の法螺貝を贈り最後の別れをした
信之が諸大名に気を使い、また尊敬されていたことが伺える


天下の飾り
信之は幕府に度々隠居を願い出たが、4代将軍家綱が幼少であるとして許されなかった
明暦2(1656)年ようやく幕府の許可が下り隠居 家督を次男の信政に譲る
この時の上使酒井忠世の上意の趣は、「伊豆守は忠孝を全うし武功から言っても天下の飾りとも思し
召すので、隠居は御承引し難いが、数年に渡る願いといい、その上非常な老齢ということで、その望み
に任せて隠居を許し、嫡子信政へ、川中島十万二千石、上州沼田三万石を賜る」とあった


信之晩年の家督騒動
藩主相続後、信政はわずか2年後に死去してしまう このため信政の六男幸道、沼田領の信利との
間に後継者争いが起こる 幕府、縁戚大名をも巻き込んだ大きな騒動となるが、信之と側室右京の
奮闘で幸道が相続し事なきを得る この時藩士、足軽に至るまで500名以上の、願いが適わなけれ
ば全員城を枕に切腹するという連判状を集め、さすがに幕府も幸道の相続を認めた
信政は松代藩を継ぐ時沼田から大勢の腹心の家臣を連れて来た 沼田侍と言われ、信利と双方反目が
あり、沼田侍を中心に信利の相続に反対したとも考えられている
この騒動に心身とも使い果たしたか、信之はこの年万治元年(1658)93歳の長寿を全うし没す
なお、この時沼田領は独立し沼田藩となるが、信利の失政により1681年改易される


滋野通記
松代藩士馬場政常著
後書きに、滋野世記、真武内伝などは内容は満足できるものではない 自分はさらに研究し古い記録
も新たに得たのでこれ等を追加し手記にするとかなりの分量になった これを滋野通記と名づけた
これを進んで世に広めたいと思うのではない 若しや我が同好の士があったならばその目に触れること
を期待するだけなのである
信綱寺の上人がが来てこの書を所望された 当然の因縁がありこれを呈上する
寛政7(1795)年冬 信濃海津之家臣
  馬場広人源政常  七十一歳 謹識(謹んで記す)
とあり、信綱寺に写本が一部残されているだけである 真田町教育委員会がこれの写しと、さらに口語訳
版(真田通記と改題したが)を出版した しかし今は絶版となり図書館でしか見れない
昌幸時代までの内容は滋野世記と違いは無いが、信之時代の記述はより信頼の出来るものと思われる
真田家御事蹟稿にも引用はなく新しい史料として注目したい 復刻版の出版を期待する
また、日暮硯の著者も同じく馬場政常である可能性が高い
なお、名前に源を名乗っているのは、信玄の重臣馬場美濃守の子孫にあたるため

長国寺にある歴代藩主の墓 奥が信之公
初代から近世までの藩主の墓が一同にあり珍しい例
信之公の墓 鳥居付き 同じ長国寺にある恩田木工の墓


真田騒動と恩田木工の改革
松代藩の財政は3代藩主幸道の頃から、度重なる幕府の課役や、災害等により徐々に悪化していった
延享元年(1744年)に俸給の未払いに対し、足軽がストライキを起こし、宝暦元年(1751年)には
百姓一揆も起き大きな騒動となった(田村騒動)
第6代藩主幸弘は藩財政再建のために宝暦7年(1757年)恩田木工を登用した 彼の改革は倹約の励行
と贈収賄の禁止が主眼であり、政策自体は新味のないものだったが、公正な政治姿勢や文武の奨励は、
藩士、領民の意識を改革した しかし財政の悪化は他藩同様避けられず、幕末まで苦しい状態は続いた
改革の模様は日暮硯に詳しいが、この中の「飼鳥の事」と言われる部分は後世写本の間に加えられたか、
改ざんされたかして、フィクションの感が強い